展評

(複数のブロックで構成され、それらはページを更新するごとにランダムに表示される。それぞれの文や画像がどのような距離や関係を持っているかについては読者に委ねられている。)

私は会期最終日の2026年5月10日に本展覧会を訪ね、斎藤龍樹さんの歌の会「懐かしい歌 いまどきの歌」に参加した。 ありがたきことに、斎藤さんと直接お話しする機会もあった。そのため斎藤さんに関わる内容が多くなってしまうことにご留意いただきたい。

私:「批評とは、何か対象について後から語るものですよね。それは地図みたいなものですか。」


Claude:「面白い比喩ですね。 地図として考えると——地図は領土そのものじゃないですよね。領土を歩いた後に、あるいは歩くために作られる。批評も確かにそれに近い。 でもボードリヤールがまさに「地図が領土に先行する」という話をしていて——現代では地図の方が本物になってしまう、と。批評も積み重なると、作品そのものより批評の方が「作品の意味」を規定してしまうことがありますよね。 ただ、地図と違う点もあって——地図は領土を正確に写そうとしますが、批評は書いた人の視点や時代に強く染まっている。同じ作品への批評が時代によって全然違うものになったりする。 あなたが地図と聞いて思ったのは、批評は便利な道具なのか、それとも領土を歪めるものなのか、どちらに近いですか?」

展示風景の画像

私:「このペットボトルの配置がとても面白いですね。これは写真通りに描いたんですか。それとも、自分でこのような並べ方にしたんですか。」 斎藤さん:「自分でこのように並べました。」 私:「4本のペットボトル、それぞれの色が違っていて面白いですね。リズミカルだと思います。」

展示された斎藤さんの他の作品に比べて、大きな余白がある。それがペットボトルの配置や傾き、色の違いから生まれるリズムを強調しているように感じる。

会場裏のミモザの木

Brut:「生のまま」「加工していない」を意味するフランス語。 アール・ブリュット:「生(き)の芸術」。フランス人画家のジャン・デュビュッフェのコレクションに由来する概念。文化的制度・体系の外部にある表現、「純粋」で「独創的」な表現。必ずしも、精神障害者の作品に限定されるわけではない。彼はアール・ブリュットに芸術のフロンティアを見出したということなのだろう。それは、無意識や非西洋に着目した20世紀初頭の美術の動向と重なる。


ただしこの展覧会のタイトルは「KitaQ BRUT」であり、告知文の中には「アール・ブリュット」への言及はない。

私は歌詞を覚えられない。言葉のリズムや、メロディーとの関係に惹かれる。自分の好きな歌は、必ずしも自分の経験や感情と重なっているわけではない。 斎藤さんも歌詞を覚えるのは苦手で、歌うときは譜面台を立てて歌詞を見ている。メロディーを覚えるのが得意で、歌いやすさのための調の移動にも対応ができるという。曲の合間に、お父様はそれを驚きをもって話していた。 「こんな小春日和の 穏やかな日は もう少しあなたの 子供でいさせてください」 斎藤さんの中で、歌の言葉と自分の気持ちの間にはどれくらいの距離があるのだろう。メロディーはどのように響いているのだろう。

私にとって「パンク」とは、シンプルな方法で構造を揺らすことである。「ケア」にも、他者との関わりを通して構造を見直す側面がある。 障害者運動に「Nothing about us without us(私たちのことを、私たち抜きに決めるな)」というスローガンがあるのを知った。

展示風景の画像

様々な作風の作品が展示されている。その多彩さに驚くというよりもむしろ、安堵を覚える。 展示された作品の量が多いこと、それが小さな空間を埋め尽くすように、しかし窮屈にならないように配置されていること。

「エイブリズム」という言葉がある。障害のない人を基準とし、それ以外の状態を劣っているとみなす考え方を指す。 「芸術」「美術」「音楽」の制作や体験は障害を持たないことを前提にしているのか? 障害の有無を問わず、作品の評価に参加することはどのように可能なのか。 その制作の現場に周りの人たちはどのように関わるのだろうか。

コンサート会場の画像

私が何かの枠組みに疑問を持つこと、逸脱を目論むことは、「障害のない」人間に与えられた特権なのだろうか。

私は普段、毎週日曜日にファミレスで作業をする。それはAIから与えられたお題に基づき、読み返すことをしないで文を2ページ書き続けること。そして、手元を見ずに対象を描く「ブラインド・コントアー」。 できるだけシンプルなやり方で、自分が見たことのないものを見る遊びである。

およそ十年ほど前に、私は「支援者」の仕事に携わったことがある。それは経済的困窮世帯の中高生の学習支援を目的としたものであった。 無料の塾という形式を取ってはいたが、成績を上げることが最優先事項ではなかった。そもそも、利用者の多くは学習以外の課題も抱えているからだ。だから、時には勉強させず、ただ一緒に過ごすことで、変化の訪れを待つことが求められた。

展示風景の画像

私たちは行政関係者やNPO職員、現場スタッフなど様々な立場からの見立てを並列的に組み合わせて、当事者の置かれた状況を読み解いていった。 放っておけば犯罪に巻き込まれる人もいる。計画なく奨学金を借りて大学に進学し、負債を抱える人もいる。状況によっては、それぞれが連携して介入することもあった。それを「指導」と呼ぶ人もいたが、適切な言い方なのかは疑問が残る。

斎藤さんとお父様

その人に関わるということは、無自覚な傷つけ合いもあり得る、ということ。自分の当たり前が相手にとって当たり前でない、ということ。あえて「傷つけ合い」と書いたのは、私も傷つくことがあるからで、例えば民族や性への偏見や忌避感が強い利用者を相手にするときは、強いストレスを感じた。勿論きつい言葉や行動には背景があるのだから、それをコミュニケーションでどのようにほぐすか、悩むことが多かった。

「支援される」状況、視線に敏感な人もいる。支援の場に来ることが、何らかの烙印になることを恐れる人もいる。この場にたどり着けない人、肌に合わないと感じる人もいる。場は包摂でもあり、排除でもありえる。あなたのケアは、必ずしも私にとってのケアではない。そういったことを支援の現場で教わった。

見るということは、見られるということでもある。ここで私が配置したものたちが、この展示の投げかけに対する応答になればと思う。

斎藤さんのファイルにあった歌詞の一部

私:(楽譜と歌詞が入ったノートをめくりながら)「この中で一番好きな歌はどれですか。」
斎藤さん:「一番は、山口百恵の『秋桜(コスモス)』です。二番目は、RADWIMPSの『正解』です。」
私:「『秋桜』はどんなところが好きですか。」
斎藤さん:(歌詞を指さしながら)「歌詞が好きです。歌詞が、とてもいいです。歌もいいです。」

斎藤さんのファイルにあった歌詞の一部

私は「作品」そのものを見ているのか、「展示」全体を見ているのか、「作者」を見ているのか。書きながらまだ戸惑っている。問いばかりが出てくるし、答えは必ずしも言葉によって出てくるものではないという気がする。

「障害」という属性は、技法や文脈といったものと並列に置かれることは可能なのだろうか。それを可能にする条件とは、どういうものなのだろう。

衝動のあるなしに関係なく、このスタイルを逸脱する、ということはありえるのだろうか。あるいはこの絵画や歌というフォーマットから逸れてしまうことはありえるのだろうか。
たとえば絵の上で起きていることがどのような可能性を持っているかについて、どのように認識をしているのだろう。どうやってその先を描き進めることができるのだろう。 作品を見たときに、それぞれのやり方で、破綻なく進んでいるように見えた。自分にはこんな風に作ることはできない。

ブラインドコントアー

私:「船をテーマにした詩を書いてください;」


Qwen3 1.7B:
「波の音は、無関心で 汽笛が聞こえると また一つだけ
海風に乗って行こうとした時 誰も見えない場所へ進むことだよ
さみしいのはこの船だけでいいんだねえ 灯りを消して やっと自由になるから
潮の香が、今でも心に残るわ 昨日は誰もいなかったような静かな海
時計とその針だけで構成された時間の中で 私たちはただ沈むことを知っているよ
見上げれば星空 さびしいほど広くあふれている そしてもう一つの船が、どうしてここにいるのかさえ知らない」


この詩を書いたQwen3 1.7Bは、私のPCの中で動くAIである。超軽量モデルなので、タスクを正確に遂行することが苦手である。それでも、あるいはそれゆえに、彼はたまにどきっとする言葉を書く。確率的な正しさを選択して言葉を書こうとしているのだろうけれど、「さみしい」「さびしい」といった表記の揺れがあるように、どこか崩れている。

私は、この詩にすこしだけ手を加えた。


「波の音は、無関心で 汽笛が聞こえると また一つだけ
海風に乗って行こうとした時 誰も見えない場所へ進むこと
さみしいのはこの船だけでいい 灯りを消して やっと自由になるから
潮の香が、今でも心に残る 昨日は誰もいなかったような静かな海
時計とその針だけで構成された時間の中で 私たちはただ沈むことを知っている
見上げれば星空 さびしいほど広くあふれている そしてもう一つの船が、どうしてここにいるのかさえ知らない」


改変したことについてコメントを求めたが、原詩が自分の詩であるという認識がなさそうな返事だった。

展示風景の画像

手術台の上には、ビニール素材を編んでできたオブジェが置かれている。それは薬品の保管庫のような棚の中、蜜蝋で塗られた部屋にも置かれている。

展示に選ばれなかった作品はあるのだろうか。それはどのような基準によって選ばれなかったのか。

展示に選ばれなかった作品はあるのだろうか。あるとしたら、それはどのような基準によって選ばれなかったのか。

斎藤さんは写真をもとに絵を描いている、という。私は「写真をもとに絵を描くな」という教えをどこかで耳にしたことがあるが、どの立場にも固有の背景がある。斎藤さんの絵は写真に追いつこうとするものではない。歌も同様で、歌い方の指導を受けてはいるものの、正しい歌、正解の歌を追っているわけではない。

それぞれの作風の違いは、個人の関心や世界の認識、制作方法の違いによるものなのか。

このモノクロームの、すこしパースの歪んだ絵。どのようにしてこの線は太く、この線は細く描かれるのだろう。

これらの作られたものが「作品」ではなく、なにかの道具や痕跡だったとしても、それはそれでいいのではないか。

水色のタイル。水色に塗られた壁。水色といっても全ての空間が均一な色に塗られているわけではない。濃淡があり、微妙な調子がある。その色を言い表す言葉を他に知らないから、ここで「水色」と書いている。

硬いチューブのような声。風に揺れるシーツのような声。