フランク・ステラ、思い出すことなど
黒岩恭介
二〇二四年五月四日、フランク・ステラが逝ってしまった。ワシントン・ポスト紙によると、死因はリンパ腫で、マンハッタンの自宅で亡くなったという。また死の直前まで、ニューバーグ近くのハドソン・リヴァー・ヴァレイにあるアトリエで、制作活動に勤しんでいたそうである。一九三六年五月十二日生まれだから、八七歳であった。
フランク・ステラの思い出については、三つのことを語ろうと思う。ひとつ目は個展のためにステラが初来日した一九八二年のこと。ふたつ目は一九九一年、北九州市立美術館で開催した二回目の個展でのあれこれ。最後は、現在北九州市立美術館のアネックス・テラスに設置されているステンレスの彫刻『八幡ワークス』の制作に関わる思い出である。
ステラと初めて会ったのは、もう随分以前のことで、これから話すことには、正確さを欠くところもあると思われるが、思い出とはそういうものであろうから、そのつもりで読んでいただけたらと思う。さてステラとの最初の出会いは、北九州市立美術館で開催したワーキング・ドローイング展のときだった。これは美術館が主催する展覧会としては、日本で最初の個展であった。一九八二年の十一月のことである。そのときステラは初来日したのだが、当時はまだ日米の往来については、お互いビザが必要な状況であった。そのことをステラに念押しすればよかったが、ビザが必要だとはつゆ知らずに、ケネディー空港に向かったステラは成田直行便に搭乗することはできなかった。ソウル経由で成田に入ったのだが、当然のことながら、ビザを持たないステラはすんなり入国するわけにはいかなかった。入国を審査する管理局と一悶着あったのである。ステラは単なる観光などではなく、日米の文化交流、親善のために来日したのであって、ビザがないなどという理由で入国を拒否すれば、展覧会そのものをキャンセルして、国際問題にする、とかなんとかまくし立てたそうである。アメリカ大使館に連絡を取ったり、ステラの国際的名声などを考慮した結果、管理局は滞在七十二時間という条件で、入国を許可したのであった。
ステラにとっては散々な初来日であったことだろう。それでもステラは展覧会初日の講演会やパーティーにも出席してくれ、当初のスケジュールどおり遅滞なくやるべきことをこなしてくれた。講演会については、ずいぶん熱を込めたもので、あとから知ったことだが、翌八三年にハーヴァード大学で開講予定だった「ワーキング・スペース」というテーマの六回にわたる連続講義(チャールズ・エリオット・ノートン・レクチャー)[註]のための原稿の一部から選ばれた内容であった。この連続講義を基にした著書『ワーキング・スペース』が、一九八六年にハーヴァード大学出版から刊行されている。そのような高度な内容、美術史の知識を要するレクチャーとは思わなかったので、美術館側が依頼した専門的知識を持たない通訳は面食らったことだろう。せっかくのレクチャーも、英語のわからない普通の日本人にとっては、なんのことやらという結果になったのは、残念なことであった。
オープニング・パーティーは美術館の講堂で開催したが、そのとき呼びもしないのに、「美術手帖」の編集長と、当時令名高かった美術評論家の東野芳明氏がやってこられていたので、これ幸いと東野氏には乾杯の音頭を取ってもらった。ステラはカタログのサイン会にも、快く応じてくれて、サインをもらう長い列ができたことだった。
翌日ステラは京都に一泊してから、東京に向かった。東京では和光大学でレクチャーしたり、東野氏によるインタビューなどをこなし,慌ただしく日本をあとにしニューヨークに帰った。本当にお疲れさまでしたというほかない。
余談だが、展覧会終了後、ステラに対して感謝の意を表明するため、私は作品を返却するかたわら、ニューヨークのステラの家に赴いたのであった。ステラのリビングルームには、なんと草間彌生の大きなペインティングが飾られていた。六〇年代初頭の作品だと思われるが、当時交流があったのだなと察せられた。また床にはステラの作品をデザインしたふわふわのカーペットが敷かれていたので、このようなものが販売されているのかと尋ねると、ステラは、いや、勝手に作品を使われたので、著作権法違反で没収したものだと言って微笑んだ。この日はステラ夫妻からディナーに招待されていたが、レストランの予約時間までまだ間があるということで、それまでパンとチーズとワインが供された。それがあまりに美味しかったので、止せばいいのにたっぷり食べて飲んでしまった。そのおかげで、肝心のイタリアンで提供された美味しそうな厚さが五センチもあるチキンのステーキを平らげることができなかったのである。このような失敗談も思い出される。
二番目の思い出に移ろう。一番目のドローイング展とは違って、このときは本格的なステラの回顧展であった。開催の経緯は次のとおりである。ステラのコレクションで名高い千葉県佐倉市に開館した大日本インキが親会社の川村記念美術館が、開館のイベントとして、ステラ展を計画していた。そのとき、川村記念美術館の学芸課長を務めていた広本伸幸は私の大学時代の同級生であった。彼からステラの個展を開催した経験のある北九州市立美術館に対して、一緒にやらないかと誘われたのであった。いつかは本格的なステラ展を開催したいものだと、夢見ていたが、何しろ巨大な立体作品をシリーズで制作していたステラの作品を海外から輸送することを考えると、とてもじゃないが、単独の予算でまかない切れるものではないので、夢の段階で終わっていた。それが広本からのオファーで、実現できる可能性が出てきたのであった。もちろん経費の大半は川村側が負担するということで、ことは決した。北九州市立美術館は、その代わりに経験を活かして作品の借用やカタログの制作など、中心的事務を行うことにした。当然のことながら出品作品の中心は川村記念美術館のコレクションであった。足らない部分はステラ自身のコレクションから借用、あるいは国内の美術館、個人が所蔵する作品を借用することで、展覧会を構成した。
このときもまた一九九一年十一月、ステラは北九州にやってきた。講演会も、こちらから依頼するまでもなく、ステラはやるつもりで来日したのである。前回の轍を踏まないよう、今度は美術に造詣の深い、当時アキライケダギャラリーにつとめていた西澤碧梨さんに通訳をお願いした。前もって準備された原稿は「グリムのエクスタシー」と題された絵画論で、北九州市立美術館での講演が初出であった。ここでいうグリムは、グリム童話で有名なグリム兄弟のことではなく、一八世紀なかばから一九世紀初頭にかけて活躍したフリードリヒ・メルヒオール・グリム(Friedrich Melchior, Baron von Grimm 1723 – 1807)のことである。彼はドイツ人ながらパリを活動拠点として、フランス語で文芸や音楽、美術に関する評論を執筆していたジャーナリストであった。モーツァルト一家が一七六三年から六四年にかけて、はじめてパリを訪れたとき、彼らを支援し、パリのガイド役を務め、パリの上流社会ならびに音楽サークルに彼らを紹介し、その上、少年モーツァルトとその姉ナンネールの演奏を称賛する記事を書いたことでも知られている。
さてそのグリムであるが、巨大な壁画や大掛かりな天井画を嫌悪する立場から、絵画についてこう主張した。「私たちの精神は多くの事物や多くの状況を同時に把握することはできない。それら果てしない細部が作品を豊かにするとあなたは信じているかもしれないが、それらの細部の中に精神は迷ってしまうのだ。精神は最初の一瞥で、調和の取れた全体から、なんの支障もなく強烈に感動することを欲している」。これはステラによるマイケル・フリード(Michael Fried 1939 - )からの引用であるが、ステラは素直にこの指摘は自身の初期のブラック・ペインティングを擁護する言説として感銘を受けたという。しかしステラのその後の展開を見ると、ミニマルとは真逆の方向を目指しているかに見える。そして最終的なステラの結論は「視覚芸術の最近の展開すべてを見ると、今やわれわれの精神は、多くの事物や多くの状況を同時に把握することを欲しているという事実を示している」というものであった。ここではこういった絵画論を詳細に論じる場ではないので、これ以上述べることはしない。
さて講演会のあとは、予算をどのように捻出したのかはもう忘れてしまったが、小倉のイタリアンのレストランを借り切って、レセプション・ディナーを多くの関係者を招いて開催した。レストランのオーナーには世界的アーティストの展覧会のオープンを祝う会だから、そのつもりでメニューを考えてくれるよう、要望した。これがいけなかった。メインディッシュに鯛の尾頭付きのソテーが出されたのである。ステラの顔を見て、これはまずかったと後悔した。魚の全身の姿が見える料理には抵抗があったのである。しかしこれは後の祭りであった。
最後は北九州市立美術館が所蔵する『八幡ワークス YAWATA WORKS』の制作に関わる思い出話である。一九九三年の一月だったと思うが、千草ホテルの小嶋一碩さんから相談を受けた。第二回国際鉄鋼彫刻シンポジウムを開催するにあたって、フランク・ステラを呼びたいが、可能だろうかという相談であった。これを受けて、私はアキライケダギャラリーの池田さんを通じて、ステラに連絡してもらい、感触を確認してもらった。新日鉄(現在の社名は日本製鉄)の工場で制作できるという、ステラの食指の動く条件なども手伝ってのことだと思うが、ステラは乗り気になった。そこで問題なのは、制作した作品をどうするか、すなわち、作品を北九州市立美術館が買い取る事が可能かどうかであった。
実は北九州市立美術館は、前述の一九九一年の回顧展のおり、ステラの代表作の購入を考えていた。具体的には、そのときの出品作品の一点、『メリー・クリスマス』をその唯一の候補に上げていた。ところが、実にけしからんことに、川村記念美術館に先を越されてしまったのである。その結果、個展を二回も開催しているにも関わらず、フランク・ステラの代表的作品を所蔵していないという事態が続くことになった。
またステラ作品の収蔵については次のようなエピソードもあった。一九九一年の回顧展開催時にステラが来館したとき、私は館内をくまなく案内して回ったが、ステラは磯崎新設計のアネックス屋上テラスの醸し出す空間がいたく気に入ったらしく、ここに自作の彫刻を設置したいと言い出した。少々面食らったが、館長に自らオファーしたいというので、これは面白いことになりそうだと、たまたま在館していた谷伍平館長のところへ、ステラと通訳を交えて面談したのである。ステラは館長に対して一生懸命に説明していたが、その熱心さに感心したのか、館長はそのとき一応承諾の返事をしたのであった。この驚きの展開に私は嬉しくなってしまった。後で館長に呼ばれ、どのくらいの金額を用意しておけばいいのかと訊かれた。当時、ステラの壁掛けの彫刻の価格は大体一億円弱だったので、一億円で大丈夫でしょうとこたえておいた。
ニューヨークへ帰ったステラとの間に何回か手紙の遣り取りをした。その間にごく簡単なマケットも送られてきたが、肝心の価格については非常にエクスペンシヴだという以外、具体的な金額の提示はなかった。これでは動きが取れないので、具体的金額を提示してくれるよう、手紙に書いたところ、やっと金額が出てきた。正確には覚えていないが、当時の円換算で五億から六億円くらいの価格であった。スタジオ制作ではなく、工場を借り切って制作するのだから、価格については普通の作品とは比較できないのだな、とその時になってやっと気がついた次第である。どこをどう押してもこのような予算を捻出するすべはないので、館長には事情をお話して、この購入に関しては正式にお断りをすると、言わざるを得なかった。
ステラ作品の収蔵についてはこのような失敗が続いていたので、鉄鋼シンポジウムで制作した作品を北九州市立美術館が買い取るという条件でステラに来てもらうことに、館長からゴー・サインが貰えるかどうか不安であった。小嶋さんと二人で館長室に伺い、谷館長に相談したところ、以外にも、すんなり了承してくれた。以前ステラの購入のために一億円を準備していたから、その範囲内なら自分の権限で予算を取ることができると言ってくれたのであった。
二月に入ってから、アキライケダギャラリーの池田さんに間に入ってもらい、ステラとの具体的な交渉を、ニューヨークで行ってもらった。その結果、次のような条件で鉄鋼シンポジウムへの参加が決定されたのである。新日鉄の工場を借り切っての制作、実際の作業に当たる工場側のスタッフの数の十分な配置、スクラップヤードから、必要なトン数のステンレス・スクラップの搬入作業、直径三メートル五〇センチのステンレスの鋼板に、渦巻き状のスリットを入れた円盤を三点用意すること、溶融したステンレス鋼を作品本体にポーリングする作業、などのステラ側の要望と、こちらからはすべての経費は一億円以内に収めること、などの条件を確認した。
一九九三年四月にステラは工場側スタッフとのキックオフ・ミーティングのために北九州市へやってきた。ステラは小嶋さんの案内で新日鉄の作業現場の検分、美術館では、出来上がった作品の設置場所の確認、などを行った。設置場所に関しては、ステラが以前要望していたアネックスの屋上テラスは、作品の荷重に耐えないという構造上の問題があったので、アネックス入口前のテラスに変更したのである。
実際の制作作業は十一月下旬のおよそ一週間で行われた。われわれ学芸員は時間を見つけては、新日鉄八幡製鐵所の制作現場の見学に、ビデオカメラを持って日参したものである。そして十一月の最終土曜日には公開制作が開催された。いつもは、関係者以外の出入りを厳重に禁止している工場内に、大勢の見学者を集めて、最後の仕上げである、一五〇〇度以上の溶けた灼熱のステンレス鋼を作品本体に掛けるという制作のクライマックスが公開されたのである。ステラの指示により、何回かに分けてポーリングが行われた。作品全体が真っ赤に熱している。この状態が永遠に続けば、それがベストだということを、ステラ自身も言っていたが、まさに作品が冷えていくのが残念に思えるほどであった。公開制作のあと、場所を美術館に移して、私の司会で、ステラと鉄鋼彫刻シンポジウムの他の参加者であった篠原有司男と母里聖徳、三名のアーティストによるシンポジウムを行った。
ところで、フランク・ステラはアメリカで、競走馬を所有する馬主である。十一月下旬の日曜日、東京の府中競馬場ではジャパンカップが行われるのだが、アメリカからも一番人気におされたコタシャーンという馬がエントリーされていた。ステラも気にしていたが、工場での最終的な調整作業があるので、当然そちらが優先である。競馬に興味ある学芸仲間は小倉競馬場に行って、馬券を買いレースをターフビジョンで見守った。レースは、河内洋騎乗のレガシーワールドが先頭に立って最後の直線をゴール目指して激走していたが、コタシャーンがものすごい勢いで後方から追い込んできた。あわやと思ったが、何を間違えたのか、ゴール前一〇〇mあたりで、一瞬、ケント・デザーモ騎手が追うのを止めてしまったのである。他の騎手がまだ追っていたので、デザーモも気がついたらしくまた追い始めたが、後の祭りで、河内のレガシーワールドには届かなかった。それでも二着を確保したのは流石である。今とは違い当時の人気を見ると、一番人気から三番人気まですべて外国馬であリ、また凱旋門賞やミラノ・ダービーの勝馬など、一六頭中、九頭が外国馬であった。レガシーワールドは六番人気で、馬連も相当ついたのである。珍しいことにわれわれ学芸仲間は皆、馬券が的中し、少々懐具合も温まり、夕方、ステラの宿泊先の千草ホテルに意気揚々と向かったのである。ステラは開口一番、誰が勝ったのか(Who won?)と訊くので、われわれが勝ったとこたえると、ステラはキョトンとしている。英語の who は何も人間とは限らないのであって、ステラはどの馬が勝ったのかと訊いたのである。レガシーワールドが勝って、アメリカのコタシャーンはゴール板を間違えて惜しくも二着だったと伝えると、ステラは残念そうな顔をするでもなく、それじゃあ、黒岩が一番で、ステラは二番だったのだね、と微笑した。そして翌月曜日にステラは慌ただしく帰国の途についたのであった。
写真キャプション(上から)
・「フランク・ステラ ワーキング・ドローイング 1956-1982」展のカタログ表紙
・「フランク・ステラ 1958-1990」展のカタログ表紙
・ YAWATA WORKS 1993 ステンレス鋼 427x480x480cm
・「国際鉄鋼彫刻シンポジウム」公開制作時、小嶋一碩氏とステラ © Yuji Shinomiya
・「国際鉄鋼彫刻シンポジウム」公開制作時のステラ © Yuji Shinomiya
・「国際鉄鋼彫刻シンポジウム」公開制作時、組立作業 © Yuji Shinomiya
・「国際鉄鋼彫刻シンポジウム」公開制作時、新日鉄に対するステラの感謝 © Yuji Shinomiya
・「国際鉄鋼彫刻シンポジウム」公開制作時、灼熱のステンレス鋼のポーリング
・「国際鉄鋼彫刻シンポジウム」北九州市立美術館講堂でのシンポジウム © Yuji Shinomiya
[註]ハーヴァード大学の美術部門の教授であった Charles Eliot Norton (1827-1908) の名を冠した、一九二六年以来行われている六回連続の特別講義。文芸、絵画や建築、音楽、映画など、広い意味での芸術分野で活躍する著名な学者やアーティストを招いて年に一回開催される。教授陣には、T.S. エリオット、ストラヴィンスキー、パノフスキー、ハーバート・リード、レナード・バーンスタイン、イタロ・カルヴィーノ、ジョン・ケージ、ウンベルト・エーコ、ダニエル・バレンボイム、フレデリック・ワイズマン、ヴィム・ヴェンダースなどの名が見える。基本的にその講義内容は後日ハーヴァード大学出版から上梓される。
2024.05.17
追記
このテキストのはじめのところで、このステラに関する思い出はもうずいぶん以前のことなので、正確さを欠くところがある、と断っていたのだが、まさにそのとおり、私の思い違い、思い忘れがあったので、ここに訂正しておきたい。それは最後のエピソード、ステラが北九州市戸畑区にある八幡製鐵所でステンレスの彫刻『八幡ワークス』を制作していた、その最終日の日曜日、のことである。つまり学芸仲間と小倉競馬場にジャパンカップを観戦しに行ったという話で、私はそのとき学芸仲間とは誰だったか、すっかり失念していたのである。
このホームページを読んでくれた真武真喜子さんからの指摘で、はっきり思い出したのだが、そのときのメンバーは真武さんと大久保京の三人であった。すでに書いたとおり、私たちは馬券も的中し、喜び勇んでステラのもとに向かったのだが、それは宿泊先の千草ホテルではなく、制作現場の八幡製鐵所であった。現場に到着した私たち三人を見かけたステラはすぐに歩み寄ってきて、Who won? と訊いたのであった。私はそのときはにかんで何も言わなかったのであるが、舞い上がっていた彼女たちが、私たちが勝ったのよ、とはしゃいだのであった。
ちなみに、作品名の『八幡ワークス YAWATA WORKS』の WORKS は「作品」という意味と「製鉄所」という意味をかけ合わせている。
2024.06.01