Operation Table 

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福岡市美術館学芸員の正路佐知子さんに「漂着」の展評をいただきました。ご覧ください。

QMAC企画展第11弾
漂着

2015.10.03 sat. - 12.20 sun
11:00-18:00 土日のみオープン
平日は予約制:090 7384 8169

一過性=その場限りの身体表現としてあるパフォーマンスを、漂流する思考のかたちと見るなら、その記録や痕跡はある種の漂着物だろうか。
Operation Table 企画展《漂着》では、パフォーマンスを主要な表現媒体としてきたアーティストの活動に焦点をあて、現場で使われたオブジェ類や残された物体、またその記録映像を集め公開します。

参加アーティスト:坂井存、友清ちさと、潘逸舟、松岡涼子、松野真知、村田峰紀



       

図版キャプション各行左から右
坂井存「重い荷物」2001 ©奈良優子/ 友清ちさと「28zaki 海浜博覧祭2015」/ 藩逸舟「海の形」2012[動画(5分)から] 

松岡涼子 「ざわめき」(舞踏@佐々木俊裕展『聖言−ロゴス・II』/アートスペース貘/福岡 2014) 撮影: 岡村憲吾
松野真知「Milk to Butter」(パフォーマンス@TRANSIT/Operation Table 2012)
村田峰紀「Over Write II」(パフォーマンス@生PUNK/ギャラリーハシモト/2015) ©木暮伸也

opening event
潘逸舟:パフォーマンス「呼吸」(自分と同じ重量の石をお腹に乗せ呼吸する)&アーティスト・トーク
2015.10.03 sat. 17:30-

潘逸舟(はん いしゅう)は1987年上海に生まれ、青森で育つ。2012年に東京芸術大学美術研究科先端芸術表現を修了。現在東京在住。高校生の頃からパフォーマンスをはじめ、さまざまな場所や環境で活動してきた。その記録映像を紹介しながら、潘自身がその背景や状況を語ります。
参加費:1,000円
19:30 からのレセプション参加者は+500円

「呼吸」(パフォーマンス 2012)

イヴェントの記録映像、詳細はこちら


どこまでも漂い、今ここに届く−−「漂着」展に寄せて
正路佐知子[福岡市美術館学芸員]

1994年1月30日、福岡市美術館2階ロビー。伝説のハプナー風倉匠によるパフォーマンス「ピアノを打つ(ピアノ狂詩曲)」が行われた。風倉はロビーに置かれたグランドピアノを鞭で叩き、解体していく。鞭打つ音、鞭が風を切る音、風倉の身体や鞭が触れることで鳴(泣)きだす弦の音、風倉の発する呼吸音でロビー空間は満たされる。風倉の行為によって空気は震え、観客の身体を揺らしていた。
これは20年経った後に記録映像を見たわたしが想像した情景に過ぎない。そこにいなかったわたしには、この映像がその時起きたことや場の雰囲気をどれだけ正確に伝えているのか判断ができない。けれど粗い映像に張り詰めた空気を、時にふっと緩む空気を読み、映された風倉の身振りに引き込まれたことは紛れもない事実である。
ちょうど一年前、この記録映像を同館展示室で流し、解体されたピアノの部材を用いた作品と、パフォーマンスに使用された鞭を展示した。ひどくくたびれてはいるが得も言われぬ熱を帯びたこの鞭は、展覧会終了後、所有者から寄贈を受け美術館のコレクションに加わった。
***
パフォーマンス。企画者はそれを「漂流する思考のかたち」と呼ぶ。その記録や痕跡を「漂着物」と呼ぶ。(そうか、あの鞭にただならぬものを感じるのは風倉の思考が刻印されていたからか、とわたしはひとり合点する。風倉が自作・使用した鞭はパフォーマンスをリプリゼントするものでもあった。)パフォーマンスの記録映像と用いられたモノ、生成されたオブジェを展示するのが「漂着」展である。そして会期中にも出品作家によるパフォーマンス=思考は生成され漂流し続けた。
展覧会初日に行われた潘逸舟のパフォーマンス「呼吸(自分と同じ重量の石をお腹に乗せ呼吸する)」は、過去に発表された映像作品の再演である。しかし映像作品《呼吸》(2012年)では画面全面に石が映され、石がわずかに揺れ動く理由はタイトルによって暗示されるのみなのに対し、QMACでのパフォーマンスにおいては石のサイズを突きつけられながら、横たわる潘の腹の上を、潘の表情を、身体の微細な動きを追うこととなる。映像作品中の石と本展パフォーマンスの石は同じ発想のもと用いられながらも、別の意味にも分岐し始める。村田峰紀が小倉城傍で行った、唸りながらギターのボディを傷つけていくパフォーマンスは暴力的なまでに自己を投入したアクション・ドローイングであった。潘が腹に乗せた石、村田が美しいドローイングを施したギターは事後、記録映像とともに展示に加えられる。「漂着物」と言っても形態は一様であるはずがなく、それぞれに固有のストーリーが、思考が、記憶が、抱え込まれている。
坂井存がパフォーマンスに用いるタイヤチューブはオブジェ作品としての強度を有し、それ自体で「重い荷物」というコンセプトを雄弁に語る。記録映像は編集され、パフォーマンスの意図が明快に述べられ、より強いメッセージ性を社会性を帯びたものとなる。日々の生活/労働で使用するモノをパフォーマンスやインスタレーションの素材とする松野真知作品の場合、並べられる日用品や野菜そのものがパフォーマンスをリプリゼントするかのようだ。松岡涼子の「漂着物」には、舞踏の衣装、記録写真と映像に加え、画家・生島国宜によるペインティングが含まれていた。松岡の身振りと他者の思考のコラボレーションと言えるこの絵画は他の「漂着物」とは別の位相にある。しかしそこでこれまでわたしが見てきた記録映像自体、撮影者の目を通したものであったことに気づく。他者の目を通した記録がその実を、あるいは別の側面を語りだすことだってあるだろう。
「漂着物」はパフォーマンスそのものではない。だから、一度きりのその時を見ておきたいといつも唇を噛む。しかし「漂着物」の多様なありようによって、観る者の想像力をも喚起しながら、パフォーマンスは、漂流する思考は新たなかたちを得ていく。
展覧会の最終日に行われた友清ちさとのパフォーマンス「Kiyoozeの世界中みんな幸せradio!!」はQMACの3階ベランダでラジオ公開放送の体を成し展開した。事前にアンケートによって集められたQMAC周辺に住む方々の声が友清扮するKiyoozeやゲストによって読み上げられ、それをネタに即興的な会話が繰り広げられる。合間合間に、あるフレーズが繰り返される。あまりの頻度に、いつしかリスナーはそれを空で口ずさめるようになっていた。「この番組は超未来型ラジオです。どこにも中継されていません。どの電波にも乗っていません。まったくここでしか聴けないのです。今そこで見ている貴方様とCDを聴いている貴方様にだけお届けしています。」
寒さに震えながら聴く体験、友清の逸脱したパーソナリティぶり、オーディエンスの一体感等々は、確かにあの時あの場所にいた者だけに共有されたものかもしれない。しかし、このパフォーマンスもまた記録され、現在QMACのウェブサイト上に漂っている。「今・・・貴方様だけに」「ここでしか聴けない」ラジオ公開放送をわたしたちは「今」「ここ」で見聴きすることができる。時空間は引き延ばされ、あるいは収縮し、「漂着物」は形を幾様にも変えて、思考を伝達する。
本展会期中に行われたパフォーマンスについては幸運にも目にできたもののみ言及した。出品作家すべてのパフォーマンスを見たかったが身体ひとつでは不可能だった。だがそれらの「思考のかたち」の記録はウェブ空間を漂い、「今」「ここ」にも流れ着いた。わたしはそれに手を伸ばすことができる。