「山福朱実 水はみどろの宮 挿絵版画展」が毎日新聞(2017.08.06 日曜版 長谷川容子記者)に紹介されました。
2017.8.5(土)-8.16(水) |
水俣を描いた『苦海浄土』で知られる石牟礼道子さんが1997年に発表したファンタジー。2016年春、山福朱実さんの挿絵が入り、子供も楽しめる文庫本として蘇りました。
*展示する46点の挿絵原画は木版画と紙版画で製作しており、限定数で販売。売上の一部を熊本震災の義援金とさせていただきます。
山福朱実
1963年、北九州市若松区生まれ。イラストレーション等の仕事を経て、2004年に木版画の制作を開始、「樹の実工房を営む。主な絵本に『ヤマネコ毛布』(復刊ドットコム)、『砂漠の町とサフラン酒』(小川未明作・架空社)、『きたかぜとたいよう』(蜂飼耳/文・岩崎書店) 『地球と宇宙のおはなし』(チョン チャンフン/文 おおたけきよみ/訳・講談社) 『ぐるうんぐるん』(農文協)がある。
帰ってきたヤマネコ
上野朱
「あんた、親ばだまくらかして出ていっちょろうがな」というのが、私が山福朱実をからかう時の決まり文句だった。
東京で写植の学校に行き、戻ってきて家業の印刷所を手伝うというふれこみで家を離れた18歳の娘。ところがいつの間にか劇団に入ったり、イラストを描き始めたりして東京に居着いてしまい、気がつけば35年もの月日が過ぎていた。「親を騙して出ていった不孝者!」と筑豊弁で罵られても当然の所行である。こんな娘は市中引き回しの上、若戸大橋から逆さ吊りにしなければならぬと思っていたが、あにはからんや彼女は花のお江戸で大いなる脱皮を遂げていたのだった。
2017年8月、北九州市八幡東区のOperation Tableで『水はみどろの宮』挿絵版画展を観る。イラストレーターからイラストライター、そして今や「歌う版画家」となった山福朱実の里帰り展は、元動物病院の壁面狭しと掲げられた作品と、彼女の新旧の友人たちで溢れていた。美術家でもなく批評眼も持たない私なので、ひとつひとつの作品についてどうこう述べることは遠慮する。しかし例えば棟方志功の版画のごく一部を見ただけでも「これは志功じゃないか?」と見当がつくように、「これはアケミに違いない」と思わせる個性がすでにある、と思う。
ほとんどいつも猫(もちろんノーブランド猫)が飼われていた家に育った彼女も幼い頃から猫好きだったが、若松半島・高塔山の彼方とはいえ一応は町なか育ちだったので、蛾やバッタ、ギッチョンといった虫類には弱く、両親と一緒に私の家(鞍手町の山の中)に来た時には、ほんの小さな羽虫がよぎっただけで、それはもう大変な騒ぎようだった。だが神奈川の自然に囲まれた、樹の実工房という名の住まいで過ごす8年のうちに「ミミズもムカデもわしづかみ!」といってもいいほどまでに虫嫌いを克服。また数多くの樹木や草花、野菜の世話を重ねるうちに、人工物でない命への観察力が磨かれたのであろう。樹の実工房時代の彼女のブログを見るたび、よくもまあ猫より足の多い(或いは少ない)生き物と親しくなれたことと感心しつつも、昔を考えれば呆れる思いもしていたのだ。
自然の観察と生命を愛おしむ心、これは表現者にとってなにより大切なものではないだろうか。人間に対してはもちろん、一匹の虫の喜怒哀楽やひとつぶの種の一生を想像する力、作り手にその力がなかったなら、絵も音楽も文章もそれは単なる技巧にとどまり、人の心に届きはしないだろう。(本当は政治に携わる者こそ、人並み以上に命への関心が高くなければならないのだが、株価や権力にしか興味がないのだから困ったものだ)
そんな「命へ深入りする目と心」を持ち得たからこそ、石牟礼道子さんの文章と共振し、作品化することができたのではないかと『水はみどろの宮』に付けられた挿絵を見ながら思う。ことに主役が猫と犬と少女だったということで、もともと猫好きの描き手はもうどっぷりとけものたちの中に入り込み、渾然一体となって嵐に打たれたり水をくぐったりしているような躍動を見せる。
あの世とこの世を自在に行き来するような石牟礼さんの作品の挿絵を描くなんて怖ろしい。そんなことができるのは、『みなまた 海のこえ』の丸木俊さん・位里さんくらいだろうと思ってきたが、それを山福朱実がやってしまった。もともと、父親の山福康政さんから絵の才能を受け継いでいたのだろうが、それは湧き出すところを探していた地下水脈のようなもの。そしてついに版画という手法に巡り会ったことは、彼女にとっても、その作品を目にする私達にとっても幸せだったと思う。さらには母・緑さん譲りの歌唱力と度胸まで炸裂した感があって、歌う版画家はこの先どうなっていくのだろうと楽しみである。
ただひとつ私が心配するのは、若松という便利のよくないところ(鞍手の田舎から言われたくないか?)に移ったために、共同展やコンサートへの参加が制約されるのではないかということだが、里帰りするやいなや繁殖力旺盛な菌糸のように新しい仲間を増やしている彼女とパートナーの末森さんのことなので、きっと杞憂に終わることだろう。
決して「私が私が」と押し出してゆく人物ではなく、はじけるような笑い声の割には控えめな人柄だが、その回りに集う人々の笑顔を見ていると、山福朱実という人は知らない人間同士を結びつけるというなかなか得難い力を持っているに違いないと思う。しかしこれでもう「あんた、親ば…」という台詞が使えなくなって、実は私は困っているのである。
上野朱
1956年福岡市生まれ。1964年父上野英信が「筑豊文庫」を創設するのに伴われて鞍手に移り、廃坑集落で育つ。高校卒業後洋菓子職人を目指して東京で就職するが、1年半後筑豊へ戻る。1996年筑豊文庫を閉鎖、解体。現在は宗像市で古書店「古本アクス」を経営。著書に『蕨の家 上野英信と晴子』(海鳥社 2000年)、『父を焼く 上野英信と筑豊』(岩波書店 2010年)がある。
〈この略歴は『父を焼く』巻末の著者略歴を参考にしました。〉
🔷「山福朱実 水はみどろの宮 挿絵版画展」はプロジェクト「槻田アンデパンダン」と連携して開催しました。